草花を観賞する中で調べたり、見聞きしたことをメモしてみます。すぐ、忘れますので(^^)

ただし、知っていても何の得にもなりません。

うめ(梅)
梅は東アジアだけに生育し、中国が原産地だといわれています。日本へは、今から約1500年前、薬用の“烏梅(ウバイ)”として伝来、これは青梅を薫製・乾燥したもので、現在でも漢方薬のひとつになっています。 うめの語源は「」「つくしくずらしい」からきた語だということです。
奈良・平安時代の貴族は観賞用、薬用に競って自邸に植樹しました。渡来当初、実は生菓子にして食べていたようですが、効用が知れるに従って長期保存ができる塩漬法が考え出されました。 鎌倉時代、梅ぼしは僧家の点心やおやつで、室町時代に入りやっと武家の食膳にものぼるようになります。
また、菅原道真は梅の花を好み、邸内にたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼ばれていました。都落ちの時を迎えて、道真は紅梅との別れを惜しんで「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」
と詠みました。そんな主人の心を感じた梅が、一夜にして大宰府まで飛んできて、根を下ろしたという話は有名ですね。ついでに飛んだのは紅梅でしたが、太宰府天満宮境内にある飛び梅は何故か白梅になっています。
「かっぱ地尊」
高塔山頂上のコンクリート堂の中に背中に釘のささった虚空蔵菩薩がまつられています。この河童封じ地蔵は、若松生まれの作家・火野葦平の小説『石と釘』により有名になりました。
昔、島郷(地名)は修多羅(地名)のカッパ群が、夜になると手に手に葦に葉っぱを太刀のようにひらめかし空中戦を行い、朝になると、田や畑にカッパの死体が溶けて青緑の液となって溜まり、鼻をさす悪臭を放ち、村人達を困らせていました。
この話を聞いた堂丸総学という山伏が、カッパ封じの祈祷を始めました。日は昇り、日は沈み、また昇り、 また沈み、山伏は食抜きで祈祷を続けました。カッパの化身は美女になり、金銀をつみ、お化けとなり、尿を垂れ流し、妨害しましたが、山伏の祈祷は続けられ、何千遍目かの日の沈む頃、石地蔵の肌はモチのように柔らかになりました。すかさず山伏は、地蔵の背中に1尺(約30cm)の大釘をハッシと打ちこみました。その瞬間、カッパ群は木の葉のように舞い落ち、永遠に地中に封じこめられたと伝えられています。

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